砂風呂

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"読書について"を読んでみた感想

ショーペンハウエルの「読書について」を読んだ感想です。
本の内容をただ読むだけではなくてちゃんと噛み砕いて飲み込むところまでするのが読書だ、という感じでした。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

"なんだか本が読みたいな"と思うことが自分の体内では数ヶ月に一度くらいの頻度で起こるのですが、いざ何読もうかと考えたときに大学生の時期に読んでおきたい本n選!のようなブログ記事で目に付いたのがこの本でした。本を読むなんてことは自分の普段の生活だとライトノベルを読んで娯楽に浸るだとか、技術書をパラパラっとめくって新たな情報を得たりするぐらいしかしてないが、哲学的な話は結構好きなのでついつい読んでしまった。

まだ一度しか読んでないので結構適当なこと書いてます(´・ω・`)

読書をするという行為は、自分の思想を硬直させてしまう危険性をはらんでいる

これは確かにそうだなあと思ってしまった。自分の行動の傾向として、読んだ本の内容を自分で咀嚼して噛み砕くことをせずに一語一句本と同じ内容を他人との話し合いやら議論やらで持ち出すということをよくやってしまう。

例えば本の内容を人に説明するときにやたら専門用語を持ち出して相手側に理解を及ばすことが出来ないのは、その専門用語の意味を思考することを怠った結果なんだと思う。これではただ記憶力に頼っているだけでああいえばこういう奴と何ら変わりないなーと思うとなんだか悲しい。

あとp.50~60にはこんな事が書いてあった。
"婉曲的、複雑、意味の捉えづらい複合造語などで構成される著作は、著者が自ら施策した形跡を持っておらず、それは読者に思考することをゆだねるものであり、無責任である"
いかに簡単な文章で物事を伝えられるかどうか、が課題になってきそう。

ただ、婉曲的で意味の分からない複合造語ってファンタジーゲームとかマンガ・アニメの世界では中二心を煽られてわくわくさせられるいい言葉だと思うし、そこまで否定されるものでもないと思った。この著者が過ごしてきた背景では意味の分からない造語は良いものとはされてないけど、いい意味で思考を委ねているのがアニメ・ゲームなのかなーと勝手に思います。

読書によって自分の考えが固定されてしまってはいけないので、「思索」が必要であるということ

考えが固定されるとなぜいけないのか?というと、格言を無条件で信仰するという、まさに宗教的盲信に走ってしまう危険性につながるからだと解釈しました。
ところがこの本の「思索」という言葉が実際どういった行動を指し示しているのか、僕のふやけた頭では結局分からずしまいでした。ショーペンハウエルさんの「本の中身を自分でちゃんと噛み砕くことが大切だ」という主張が結構強烈で、それが格言として自分の脳内に突っ込まれちゃってる状況かもしれません//時間があればもう一度そこを意識して読みたい。

心に思想を抱く=恋人を抱くようなもの

思想も恋人も常日頃変化するけれど恋人は常に繋ぎとめる努力をしなければどっかいっちゃうように、思想も常に自分に繋ぎとめて置かなければ自分の考えが固まらないよという話。

なんかこのたとえ面白いなと思っていろいろな考えちゃいました。流れだけ言うと、恋人ができる過程でも最初はその人のなにかに惹かれたから好きになり、好きであるから相手に何かをする→でも時間が経つとなんでその人を好きになったのか忘れがち→好きになった理由というのは時間によって変化していることに気づく→その変化さえも受け入れたいと思ったときに愛を享受しあえる

思想=恋人に置き換えても通用するのかなあ。とか書いてると恥ずかしいのでこの辺にしときます( ˘ω˘)暇があれば今度別記事で。